メロウなvéloで行こう

おもに小径折りたたみ自転車で東北各地、ときに日本各地や海外を走る話

2005 BD-1 で走ったバリ・ロンボク Day7

Day7
ティルタガンガ - パダンバイ -(フェリー)-レンバル(ロンボク島
Tirttagangga - Padang Pai -(ferry)- Lembar (Lombok)

 

バリ島の旅も今日が最後だ。

港まで降りてからフェリーに乗り、隣のロンボク島に渡る。

 

 

この宿も棚田ビューでまことに充分に心地よい部屋なのだが、昨日のシドムンの宿のスペシャルエグゼクティブスーパービューバンガローがあまりにも素晴らしすぎたので相対的に見劣りしてしまう。

 

 

今日のルートは丘の上から海岸に向かって走っていくので、下り基調で気が楽だ。

 

途中の村のワルンでひるめし。

まな板の上に尻尾付きの豚のケツが鎮座している。つまりはもも肉だ。注文に応じてスライスするスタイル。

 

標高が下がるにつれ風景が平らになってくる。

 

ついに海岸の町チャンディダサまで降りてきた。

久しぶりに見る海である。

チャンディダサはバジェットで気取りの無いビーチリゾートといった感じで、西洋人もあまたうろちょろしている。

 

ここから港のあるパダンバイまで海岸沿いの道を辿ればいいんだから楽勝じゃんと思ったが、それほど甘くなかった。その先の地形はリアス式よろしく山が海沿いまでせり出しており、道路は内陸を小さなアップダウンを繰り返しながら西に向かうのだった。

 

パダンバイの港に着いた。

15時発のフェリーに乗れることになった。いい按配である。

ロンボク島のレンバル港までは順調に行けば3時間で着くらしい。今日は天気もいいし順調に違いない。向こうに6時頃着けば島の中心の町マタラムまで走って泊まれるだろうからちょうどいい。

 

文字通り大船に乗ったつもりになり、天気もいいのでデッキに陣取って潮風を味わう。

こんな日に船室にこもっているなんてもったいない。

 

しかし出航してしばらくして外海に出ると、意外に波が大きくなり風も強い。船もずいぶん揺れる。上天気なのにこんなの予想外だ。

しかも1時間以上経ってもぜんぜんバリ島が遠ざからない。いったいこの船はちゃんとロンボクに行く気があるのだろうかと疑念を抱く。

 

海の上で強い風に吹きさらしなので、日が傾いてくるとデッキはだんだん肌寒くなってきた。

しかし船室もずいぶん混み合っているので今更入って行ってものんびりできる席がない。仕方なしに持っているシャツを全部重ね着してデッキで丸まっている。

寒いとおしっこに行きたくなるが、トイレがまた地獄のようにボロくて汚いので閉口した。

 

出航して3時間経ち4時間経ち、うとうと一眠りして起きたらもう日も暮れて真っ暗だ。

時計を見たら8時を過ぎている。それなのにまだ着く気配がない。

デッキでは若い兄ちゃんたちのグループが、ボロボロのギターを弾くやつを囲んで、みんなでやけくそのように声を張り上げて歌っている。なんだか遭難しかけている登山隊のような雰囲気になってきた。眠ったら死んじゃうのかもしれない。

(この日はこの先写真が1枚もことからも困憊ぶりが窺える)

 

やがて島影が見えてきたが、陸の灯りが見えない。一体どのあたりが港なんだろう。

やっとささやかな明かりが見えて小さな村があるなと思ったら、そこがレンバルの港だった。

 

夜9時ロンボク島上陸。

所要堂々の6時間。誰だ3時間とか言ったのは。

船に乗ってただけなのにぐったり疲れた。

ここはバリ島と違って道路の照明もないに等しい。これから暗い夜道を走ってマタラムまで行く元気もない。さてどうするか。

レンバルの薄暗い小さな町を見渡したところ、宿屋らしきものがあった。助かった。今日はもうここに泊まろう。

1泊5万ルピア。これまでのリゾートの値段に比べたら1/4とか1/5の値段だ。もちろん快適さもお値段相応である。

船上で体が冷え切ったところに、水しか出ないシャワーを浴びたら、寒くて歯がガチガチ鳴った。熱帯の島で歯をガチガチ言わせて震えるのも稀有な体験であろう。

 

ロンボク篇につゞく…

2005 BD-1で走るベトナム・メコンデルタ Day4

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Day2  ミトー-ベンチェー My Tho - Ben Tre

(地図は作成日である2012年になってますが2005年です)

Day1はこちら👇

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ホテルの朝。今日も披露宴の準備をしている。どんだけ結婚するんだベトナム人

朝食は近くの食堂に食べに行く。焼きそば、目玉焼き、そしてバインミーバインミーはこの後も朝食の定番になるがやはりとても美味しい。

 

サイゴンでまつわりついてきたのはバイクタクシーの客引きだったが、ここミトーではジャングルポートクルーズの客引きだ。

ジャングルボートクルーズはミトー名物の外国人向けアトラクションだ。小舟でメコン川や入り組んだ水路をクルーズするという、ベトナムの水郷といったところか。

ホテルに戻る途中もボートクルーズの客引きががまとわりつく。だいたいは数人のグループで一艘の舟に揺られて行くというものだが、見ず知らずの外人と団体行動はうっとうしいなあと思い、クルーズの客引きはバッサバサと斬りすてて歩いていた。

しかしある客引きが一艘貸し切りツアーはどうだという。値段もまあ貸し切りと思えばそんなに高くないと言った程度。加えて30代と思しきその男はほぼ完璧なアメリカ英語を流暢に話した。米本土に住んでいたことがあるという。こいつがガイドしてくれるなら何かとラクだろう。そう思って昼からの2時間のクルーズで手を打つことにした。

 

昼に指定された船着場に行ってみるとさっきの客引きの男がいた。傍らに小さな船がつないである。船頭はおばちゃんでなぜか小さな男の子も乗っている。

これがあんたの船だ、それじゃエンジョイ。と言うや男はバイクにまたがってどこかへ行ってしまった。

待てこらお前がガイドしてくれるんじゃなかったのかよ。

 

おばちゃんはおそらく男の奥さんだろうか。英語は全く通じない。ボートが出るが男の子も乗ったままだ。助手か。

言葉の全く通じないクルージングツアーの出発である。船はマングローブやヤシの木が生い茂るジャングルを塗って進んでいく。自転車とはまた違った野趣があってこれは大変よい。

 

 

客引きとおばちゃんの息子とおぼしき小僧、このように外国人を案内するのに慣れていてみんなに可愛がってもらうのだろう。人懐っこくて利発なやつだ。

会話帳を見ながらお互い片言で話をする。名前はリー、9歳。アメリカのロゴが入った帽子をいい帽子かぶってんじゃんと言ったらアメリカ人の客にプレゼントされたという(たぶん)。

そのうちこちらは日本語、リーはベトナム語でお互い言いたいことを言っていたらなんとなく意思が通じるようになった。どこの国も子どもというのはそんなもんである。

 

 

リーとふたりで舳先に座って過ぎる景色を眺めていると、すれ違う舟の西洋人ツーリストたちがわたしにカメラを向ける。タンクトップと短パンというベトナム度の濃い服装もあって多分わたしを現地人だと思っているのだろう。

今ごろ欧米のどこかの家庭にわたしの写真があってそれを見てオー、ローカルボートマン、ウィズヒズサン。ラブリー、とか話をしていると思うと愉快なものがある。騙してすまんな西洋人。

 

 ジャングルの中の水路をのんびりクルーズしているだけでも楽しかったのだが、一応いくつかの名所に連れて行かれる。着岸と離岸の際はリーも操船を手伝う。案内するのはもっぱらリーの仕事で、おばちゃんは船で待っている。あまり興味はなかったけれどリーが先に立っておいでおいでよというので不承不承上陸して見物する。

と言ってもこのガイドはベトナム語しか喋らないのでわたしは連れてこられたところが何なのかよくわからない。現地の英語の説明を見て初めて理解する形だ。

 

まず来たのはフーン(フェニックス)島。龍のトーテムポールが立ち並び何やら謎の遊園地もしくは不思議ワンダーランドといった感じだが、これはココナツ教団というかつての宗教団体の総本山跡なのだった。

ココナッツ教団とは何かというと、仏教とキリスト教の教義をごった煮にした上で世界の平和を祈りつつココナッツだけを食べて生きていこうという、健康にいいんだか悪いんだかわからない謎の宗教であったということだ。ベトナム統一後共産政権により教団は禁止されてしまったがこの施設はおもしろ観光施設として今も残り、国際的ネタとしてツーリストに人気だ。

よくわからないがおもしろオブジェがあったのでリーを入れて撮る。後で調べたらこれは教祖の墓だった。すまんリー。

 

 

さらに行くと別の部屋では伝統音楽ライブをやっていた。世界のトラディショナルミュージックを好んで聞いている私としてはこれは非常に楽しく聞かせてもらった。リーはつまらなそうで早く戻りたい感じだったが。

 

 

全体的によくわからないままココナツ教団をあとにする。

 

次に連れて行かれたのがココナツ飴の工場。

この辺りの名産らしく製造直売コーナーのようだが試食品だけもらってリーにもあげる。

 

工程によっては勤務態度がゆるいやつもいる。

 


ココナツ教団とココナツ飴工場のココナツコースが2頭のジャングルクルーズの定番であるようだった。

休みの日に息子を遊びに連れて行くお父さんのような気分になれてこれはこれで楽しいひとときであった(連れて行かれたのはわたしだったのだが)。

 

2時間のクルーズを終え、宿に預けてあった自転車を回収して走り出す。

1日の前半をリバークルーズに充ててしまったので今日は近くの町まで走って早々に投宿することにする。

さっき遊んでいたメコン川を渡って20キロ足らずで隣のベンチェの町に着く。

 

 

ミトーと違ってこの町はツーリズム色はほとんどなく、初めて客引きの寄ってこない街だ。ベトナム人オンリーの日常が回っているという印象を受ける。

 

遅い午後の街をポタリングする。

この町も活気の中心は市場だ。

 

これはニワトリ屋。アヒルっぽい鳥も売っている。

でかい秤があるから値段は従量制なのだろう。

おそらく食用だと思われる。なるほど肉を買うよりも生きたまま買って帰れば日持ちもするし、サービスで卵も産んでくれるかもしれない。

 

 

 

商店街の裏は舟の納品口になっている。

ココナツの納品です。

 

 

ベンチェの宿 Huong Vuong 。

昨日の宿がチュオンドゥオンで今日はフオンヴオンだオン。

 

goo.gl

 

 1泊25USD。今日もリバービューの部屋。

 

今日もメコンに夕日は沈むのだった。

 

 

(旧ver. 2012/09/04に全面加筆)

 

2005 BD-1で走ったベトナムメコンデルタ Day3

前の日の話↓

 

Day3

 サイゴン-ミトー Saigon - My Tho

自転車旅の第一日目、サイゴンのわやくちゃな交通を抜け出して、メコンデルタの入口の街ミトーに向かう。

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昨日サイゴンの交通にもまれる練習をしたので度胸はばっちりだ。

結局サイゴンで道路地図は買えなかった。持参してきた大まかな地図(ロンリープラネットのロードアトラス)と道路標識を頼りにミトーを目指す。

 

クルマの流れはクレイジーだが、バイクの波といっしょに二輪車ストリームの一部として流れていけばスムーズに走れるのはタイと同様だ。

今ではGoogle Mapを見れば西に向かう運河に沿った裏道があることがわかるが、この時はそんな情報も無く、最短距離でわかりやすい国道1号線をたどることにした。

市街の交通のカオスを抜け出して国道にたどりつくまでにすでに何度も迷子になった。

 

ホーチミンサイゴン)の朝。原チャリの海をかき分けて市街を抜け出すのがたいへん。

ようやく国道1号にたどり着くと道路は片側2車線になる。と言っても片方の車線はバイクの波が埋め尽くし、もう片方の1車線を自動車が抜きつ抜かれつバトルという構造だ。

路肩はといえば主に逆走したいバイク用となっているので注意が必要である。

実質1車線に詰め込まれたクルマはトラックやバス(韓国のお古が多い)などの大型車も多く、それらが隙あらば追い抜こうとするので狂ったようにパンパカパンパカとクラクションを鳴らしまくる。交通安全とか譲り合いとか運転マナーとか何それおいしいのという感じだ。

 

そんな首都圏のごちゃごちゃした光景も30キロあまり走ったところからは緑が目につくようになり、やがて正しい東南アジアの田んぼの風景が出現してホッとする。

ベトナムの米作は二期作だ。こっち側の田んぼが刈り入れ間近で向こう側では田植えをしていたりとか面白い光景だ。

 

お腹もすいたので途中の道路沿いの食堂に入る。看板が大きく「com」「Pho」「Hiutiu」などと対処してありわかりやすい。日本だったら「ご飯物」「ラーメン」「うどん」といったところか。

「com」を推していると思しき店に入って五目チャーハンを注文。

この手の飯屋はどこも店先にハンモックが吊るしてあり、主に客が自由に寝ていいシステムだ。暇な時は従業員が寝ている。

わたしもハンモックで揺られているとチャーハンが来た。見た目はパッとしないが一口食べてみてうまさに刮目した。ニョクマムであろうか、発酵系のテイストが隠し味となっておりさらに具のベトナムソーセージも絶妙な味わいである。タイのチャーハンもうまいがまた別のベクトルの美味しさである。

 

 

国道に戻ってみれば交通は相変わらずパンパカ合戦で賑やかだ。街が近づくとパンパカが激化し、町を出ると穏やかになるのを繰り返す。

街の人や子どもの自転車旅行者を見ての好奇の視線や「ハロー」という挨拶。ようやく東南アジアの旅情が体を満たすのを感じる。

道路沿いにはやたらに「Honda」の看板を出した店が目につく。覗いてみるとオートバイの修理屋のようだ。スズキやカワサキのバイクも走っているがどこもホンダしか直してくれないのか、と不思議に思ったが、Hondaとはすなわちバイク全般のことを指すのということをあとで知った。つまり「スズキのホンダ」とかがあるわけである。ややこしいな。

 

70kmあまり走ってミトー市街に着く。西から流れてきたメコン川のほとりの町だ.

街中に入ってみるとベトナムの日常がドカンと広がっていた。食べ物やよくわからないものの屋台、軒を連ねる商店、道端で謎のカニやエビを売るばあさんたち。大都市サイゴンとは全く異なるアジアの地方都市の緩さが押し寄せてくる。

 

突然「ぴぎゃー」と凄まじい鳴き声が響いたので何事かと思えば、子供達が豚を竹のかごですまきにしている。この後市場に売られるのだろう。


肉になることを分かっているのか本当につらそうな鳴き声だった。ベトナム人は豚は肉はもとより内臓から脳みそまで余さず食材として活用すると聞いている。豚も成仏してほしい。

 

夕方の下校時とあって自転車に乗ったアオザイの女子高生が街にあふれ行き交う。

純白のアオザイ長い黒髪の組合せはまさに「純潔」「無垢」という言葉を具現化したかのようで眩しい。おっさんであるわたしも中学生ぐらいで感じていた女性への純な甘酸っぱい憧憬を思い起こさせるものがある。嗚呼あれから幾星霜。

ちなみに白のアオザイは雨に濡れるとめちゃめちゃ透けるという話も聞いていたが、あいにく今は乾季でありその情報を検証をする機会がなく残念であった(←おまわりさんこの人です)。

 

大安なのかサイゴンもここも結婚式を多く見かけたし、来る途中道沿いのドライブインでやっているのも見た。ホテルにチェックインしたらそこでも披露宴の最中だった。

 

市場があったので入ってみる。

サイゴンでも市場に行ってみたが、あちらはわりと観光客向けのものであった。

しかしここはベトナム人の日常が爆裂している。スバイスやよくわからない漢方薬のような匂い。肉の据えた匂いなどがが立ち込めていて観光的要素は0に近い生活感が炸裂している。

その中にあってツーリストがひっそりと身を置いて歩き回ったり飯を食ったりするのがアジアの旅の醍醐味と改めて認識した。

 

ビールを買いに入った店のオヤジに片言の英語で話しかけられる。

「日本人か」「嫁さんいるのか」(当時は独身だった)「何ならうちの娘はどうだ」とニヤニヤと指さす先を見るとジャイアンの妹のジャイ子に似た子が働いている。ジャイ子お持ち帰りは遠慮したいのでそそくさとムーンウォークで退散したが、手近な若い女性を「嫁にどうだ」というのはベトナムオヤジの旅行者いじりトークの定番であるということをこの後何度か遭遇して知る。

 

泊まったホテルは25米ドル。メコン川を望むリバービューの部屋は一見いい感じだが微妙に安普請で、サッシの隙間から蚊が入って来たりしてよくない。

 

 

ミトーはメコン川クルーズを手軽に楽しめる街として外国人観光客には人気で、町にもサイゴンほどではないが西洋人ツーリストの姿を多く見える。

しかしロンリープラネット(1995版)を開いてミトーの項を見てみれば、「ミトー市当局はベトナムでも最も腐敗し、警察は最も厳しいことで知られている。そのため市民の大多数は貧しく、ツーリストにはボロい設備とぼったくり価格が課される」などとひどいことが書いてあるのだった。10年経った今はどうなんだろう。

 

goo.glde

 

 

メコンの落日

次の日 ↓

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2005 Birdy (BD-1)で走るベトナム  Day1 &2

2005 ベトナムメコンデルタの旅 はじめに

 

どういうわけか冬に長い休みを取る不遜な勤労者であるわたしは、2002年から3年続けてタイ自転車旅行を敢行した。

それまで欧州の国々しか走ったことのなかったわたしにとってそれは、自転車旅の原点に立ち返る思いのする素晴らしい体験であった。

そこで一息ついて考えたところ、東南アジアの他の国も走ってみるかという気になったのである。

 

そんな折、ロンリープラネットから新刊サイクリングガイド「Cycling in Vietnam, Laos and Cambodia」が出た。

読んでみたところ、後者2ヵ国はずいぶんダイハードでワイルドな旅を強いられることが推察されるが、ベトナムはタイ並みの気楽さで走れることがわかった。そこで次の銀輪旅行作戦はベトナムにしようと決定したのだった。

 

地図で見ればずいぶん細長いベトナムだが、かつての北ベトナムだった上半分は地形も交通事情も比較的ハードな感じだ(05年当時の話)。

それに対し、かつて南ベトナムの首都であったサイゴンホーチミン)含む南の方のメコンデルタは、地形はまっ平らで走りやすい上に、ツーリズムの各種インフラも充実しているようだ。ならばそのへんにしよう。

相棒は前年タイを走ってその走破性に信頼感を新たにしたBirdy (BD-1)カプレオ。セミハードケースに入れて飛行機輪行する。

 

ベトナムの印象としては:

・主要国道は交通ルールもマナーもへったくれもあったもんじゃないヒャッハートラフィック。しかし田舎の裏道に入れば走っているのはバイクと自転車ばかりでのどかな世界となるのであった。

ベトナム人は熱い。日常会話のボリュームが怒鳴り合い。旅行者とのバリアが低くすぐに向こうからぐいぐい間合いを詰めてくる。写真を見ると地元の人を撮ったものが突出して多い。良く言えば人懐っこい。悪く言えば図々しい。

・そんなだからサイゴンとかは客引きのしつこさもすさまじい。

・ホテルやゲストハウスは全般的にしょぼかった(2005当時)。しかしその後ツーリズムが盛り上がって競争も激化した今では、どこも格段にグレードが上がっていると思われる。

 

Day1 HMC(サイゴン

 

(この国の首都の呼称は公式にはホーチミンだが、現地では統一前からのサイゴンという呼び方をする人が多く、以下そちらに倣った表記とする。)

 

仙台からソウル経由でホーチミンサイゴン)に着いた。まずは二泊して心身をベトナムに馴化させながら自転車旅の準備を整える所存だ。

予約したホテルからよこしてもらった迎えの車でタンソンニャット空港からサイゴン中心部に向かう。かつての首都とはいえどことなく田舎っぽい感じで、タイの地方都市のようなゆるい雰囲気だ。

市街中心部のRex Hotelに投宿。

良さめのホテルだけど部屋は安めのでいいやと取った部屋は一泊60米ドル。まあこの国にしては立派なお値段だ。

しかし通された部屋には窓がなかった。窓有りの部屋はもう一ランク高い部屋だったのだ。今回はしょうがないが帰国前にもう一泊予約してあるので、改めて窓のある部屋を予約し直しておく。思わぬ落とし穴であった。

 

www.rexhotelsaigon.com

 

Day2 サイゴン

 

レックスホテル、部屋は暗いが朝ごはんはおいしい。

ベトナムといえばフォー。薄味のスープが絶妙にうまい。この先のホテルのあさめしでもフォーは定番であり、ベトナム人は朝から麺を食する点において香川や喜多方の人に近いと分析した。

他のおかずもえび団子とか春巻きとか焼売とか、中華に寄せつつも微妙に東南アジア独特の味わいがあっておいしく、この先の旅のめし事情に期待が高まるのだった。

 

 

この先必要なもの(道路地図とか)を買いがてら街に出かける。

ホテルを出るや否やバイクタクシーの客引きがうるさい。立ち止まって地図でも見ようものならアブのように集まってきて「オニイサン」と声がかかる。(ベトナム語ではフランス語の「ムシュー」「マダム」のように相手に呼びかける語が性別年齢によって10種類ぐらい(うろ覚え)あり、わたしに適合する「アイン」というのに相当する日本語が「オニイサン」であるらしい)振り切っても振り切っても「それ見ろおまえ道わかんねえだろ悪いこと言わねえから乗ってけ」という感じでしつこく付いてきて実にうるさい。

教訓:ベトナム市街観光は自転車がいい。

 

いくつかの店を見てみたが、道路地図アトラスみたいなものはない。持ってきたのはロンリープラネットベトナムラオスカンボジア合わせての大縮尺ロードアトラスだけで主要道路しか載っていない。結局地方道まで出ている地図が入手できたのは旅も中盤に差し掛かった頃だった。

 

歩きだとまとわりつく客引きにうんざりしたので、自転車を出して市内ポタに出かける。明日サイゴン市内から抜け出す際のわやくちゃな道筋のオリエンテーションを付けつための予習の意味もある。

東南アジアの交通のカオスぶりはタイで慣れたはずだが、この国もコンフュージョンウィルビーマイエピタフだ。バイクの洪水に加えてクルマもフリーダムな感じ。交差点で信号が変わった直後は青で進む流れと赤で突っ込む流れとが交叉して入り乱れる。合戦か。

逆走もわりと自由。そんな中をロードバイクでスイスイと走り抜ける西洋人サイクリストもいたりして、ああいうのは現地在住の人なんだろうな。

 

その名も人民委員会庁舎

 

まずは町の屋台に潜入し、ベトナムのごはん事情を調査する。

 

コムザン(ベトナムチャーハン)27000ドン。

200円しないから(当時レート)安い!、学食か!と喜んだが、地方ではもっと安く、サイゴンみたいな大きい街で観光客が来て英語のメニューがあるような店はツーリストぼったくり価格である、ということをのちに知ることとなるのであった。

しかしベトナムドン、とにかく数字がデカい。ラオスキップもデカかったがさらに一桁多い感じ。

物価見学のためデパートに入ってみる。中のネットカフェを利用したら10000ドン、ビデオカメラの値段が1000万以上だ。なんかお金持ちっぽい気分になれないこともない。でもクルマとか家とかの値段はどうなっちゃうんだろうか。

 

次の日↓。いよいよベトナム自転車道中のはじまり。

 

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(初版2018/ 08)

2009 KHSF20で行くチェコボヘミア自転車旅 Day5

2009チェコボヘミア自転車旅 Day5 
チェスケ・ブデヨヴィツェ-チェスキー・クルムロフ
České Budějovice - 
Český Krumlov




ロンリープラネットに「ポケットサイズのプラハ」と評され、ユネスコ世界遺産でもあるCクルムロフは国際的な大観光スポットだ。
訪れるツーリストの多くはプラハやウィーンからバスに詰め込まれて、面白くもない高速道路を何時間もかけて運ばれやってくる。
自転車旅行者はCBからCクルムロフに向かうサイクルルートで、遠くを走る高速道路のクルマの流れを眺めつつ、今日も心地よい田舎道を漕いで少しずつ近づいていくのである。
 
CBの宿、朝ごはんは地下の穴ぐらのような部屋で食べる。
 

どんよりとした曇り空の下、今日も黄色い標識(Day3参照)の12番ルートを追っていく。
今日も野原の中を行く抒情的なコースだが、時折主要国道と並走する箇所で何台も観光バスが疾走していくのが見えた。チェスキークルムロフに向かうのだろうか。
 
 
 

主要国道を走る車のゴーゴーという音を遠くに聞きながら今日も北海道ライクな道を進んでいく。

道沿いの並木の下に果実がたくさん落ちている。見てみればプラムだ。つい出来心で拾って試しに食べてみたら甘くて美味しいではないか。いくつか拾っておやつにする。

勝手に食っていいのかという声もあろうが、地元の人も車で乗り付けて大きな袋に拾い集めていたりするのでこれは無料食べ放題プラムであるという解釈で差し支えないと思う。この後も旅行中随所でこの無料フルーツ食べ放題に出会うことになるが、プラムもあれば小さなりんごのこともあり、自転車旅行者には大変にありがたいサービスだ。


 
ボルショフという街でお昼にする。イタリア料理屋だがランチメニューはチェコごはん。
ポークのパプリカソース和え定食70コルナ。
 
 
やがて標識は森の中を行く細い林道に導く。本当にこの道で大丈夫なのかと思うような道だったが、視界が開けるとそこは有名な修道院のある村ズラタコルナだった。
 
ズラタコルナに向かう林道。


 
中世ゆかりのズラタコルナ修道院 。全体はもっと大きいのだが、外からちょっと見て休んだだけで通り過ぎてしまった。内部見学もできる。あとで調べたらかなりすばらしい場所のようで惜しかった気もする。
 
丘の中腹を走ってきた道はやがてブルタバ川の成す谷へと急な坂を降りて行く。
対岸の丘の上にはチェスキークロムロフの町が見える。なかなかすごそうな佇まいだ。
 
 
 
 谷をもう一度這い登り、城門から旧市街に入る。
 
 
 
城壁の中は石畳の道の両側に古い家並が続く素晴らしい街並みだ。これはまさに小型プラハと呼ぶにふさわしい。そして観光客の密度も。
 
 
街並みの背後にそびえる城が壮観である。
 
 
まずは泊まる宿を探そう。
ロンリープラネットに出ている宿に目星をつけ行ってみるが(手前のクリーム色の家)留守である。しばらく待ってみたが誰も来ない。周囲を見てみればすぐ近所にも別の宿がある(奥の白い家)。まあ場所同じだしそっちでもいいやと思い泊まることにした。これは大正解だった。

 
 
Dům u barvíře 裏通りの静かで小さな宿。1000Kr+朝食別100Kr(部屋まで持ってきてくれる)

ばんめしは近くのレストランへ。にんにくスープ20Kr、肉料理スヴィチュコヴァ+ザウアークラウト添え130Kr。今日も正統派チェコごはんだ。

明日はチェスキークロムロフ市内観光。

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2009 チェコボヘミア Day10

Day10 インドヂリフーフ・フラデツ - スラヴォニツェ
Jindřichův Hradec - Slavonice
        ~見晴らしのいい丘の上り下りが続くルートで古都スラヴォニツェヘ

トヂェボニュから北に進路を変えてJフラデツに向かったのでそのまま北に向かうのかと誰もが思うだろう。しかし今日は再び南に進路を戻しスラヴォニツェに向かう。なぜトヂェボニュからまっすぐスラヴォニツェに行かなかったのかという声もあろうが、わたしはJフラデツに寄り道したかったのだ。人生には寄り道が必要である。
 
 
朝ごはんに行ってみると、そこにはサイクルジャージに身を固めたおじさんおばさんたちが賑やかにもりもりと食べていた。昨日いた団体はグループサイクルツアーの客だったのだ。そういえば太ってる人が一人もいなかった。ロビーには荷物でパンパンのバッグやスーツケースが山積みになっている。
ちょっと話をしてみたが、ウィーンからプラハまでグリーンウェイを走るガイド付きツアーだという。参加者は欧米いろんな国からで、わたしが話した夫婦はアメリカの人だった。自転車もレンタルだという。
「昨日トヂェボニュから走って来たんです」
「おお、私らは今日そこまで走るんだ。」
「すごくいい街ですよ。つい2泊しました。」
「まあすてき、それはとても楽しみだからあまり詳しい話はしないでちょうだい(笑)」
あの手のグループツアーは次の町までサポートカーが荷物を運んでくれるので毎日の走行はほぼ手ぶらで気軽に楽しめる。スーツケースがあったのもそのためだ(なんなら楽器とかも持っていけるのかも)。もちろん宿も自分で探す必要はない。
ガイド付きツアーとは別にself-guided といってガイド無しのツアーもある。決められたルート自力で走るものだが毎日の宿が用意されており、荷物もサポートカーが運んでくれる。あんな風に知らない人とワイワイやるのはちょっとなあと思う向きはそちらの方がいいだろう。
お値段は訊かなかったけど、調べてみると実走6〜7日のツアーで一人1000ユーロぐらい。まあ安くはないから客層もある程度お金を持ってる中高年が主だというのも頷ける。年を取って面倒なことはお金で解決する楽ちんな、自由より安寧な旅の方がいいと思うようになったらわたしもそういうツアーを選ぶかもしれない。
(その後は大半の業者でe-bike をレンタルできるようになっているので歳をとっても楽しめるだろう)
 
さわやかな朝
 
 

 

右の建物はホテル。なかなかいい感じ。

お城にも寄る
 

 
 
街を撮影して回っていたらもう昼近くになってしまった。
街を出てお城に別れを告げつつ後にする。

お城遠景
 
今日のルートは小さなアップダウンが増えてきたが、大半は森と畑が交互に現れる気持ちのいい見晴らしルートだ。
ホテルで出会った団体がたどるグリーンウェイを、今日は彼らと逆向きに走る。


道端の聖母子像

今日は少しアップダウン多し
 
こちらは劇画調
 
 
森でお弁当タイム。 このあたりの道はオーストリア国境に並行している。シャレでちょっとオーストリアに入国してみたかったが、国境を越える道がなかなかないので果たせず。
 
丘を登ったり…
 

丘を下ったり…

ノヴァ・ビストリツェの町


 
絵になる風景が続く。さすが人気のサイクルルートだ。
この地域一帯は「チェコのカナダ Česká Kanada」と名付けられた国立公園で、手付かずの森林と自然が残されている。
カナダに行ったことはないのでどのあたりがどのくらいカナダなのかわからないが、わたしの走ったグリーンウェイのほかにも多くのトレイルがあり、自転車やハイキングのメッカとされているようだ。
 
カナダだけあってけっこう野生のシカに逢ったりする。
 
森はいよいよ深くなり道も登り基調になる。カナダな風景を登り詰めた先にそびえるのはランドシュタイン城址
13世紀の城砦が残る。外から見ただけで通り過ぎたけれど。ここの領主はフラデツ家とは敵対関係にあったという。城といってもこれまでの町にあったような優美なシャトーと異なり、人里離れて荒涼とした丘の上に立っている。遠くから攻めてくる奴がいたら見つけ次第矢や槍でブスブス刺してやると言う殺す気満々の軍事施設だ。
 
ランドシュタイン城址 


 
チェコではこのような見渡す限り人家もない野原のまっただ中の道を、買い物袋を手にしたおばはんなどが一人で歩いていたりするのに遭遇してびっくりすることがたびたびある。
それはクルマを運転しない人たちで、バス停からけっこう離れたおうちまで歩いているのだ。
 
この日は学校帰りの小学生の男の子が歩いてきた。
するとすれ違いざまに突然「コンニチハ!」と日本語で挨拶するではないか(フロントバッグに日の丸のワッペンを貼って走っているのでわかったのだろう)。
意表を突かれたわたしは振り向きざま「お、おう…こ、こんにちはこんににち…」とは返したものの、え、この子日本語勉強してるのかな、でも引き返して話しかけたところで本当にコンニチハしか知らなかったら向こうも気まずいしな、などといろんなことを考えながら通り過ぎてしまった。
やはりチェコの子どもも日本のアニメとかである程度日本語に親しんでいるのかもしれない。
あの子は今日家に帰ったらお母さんに「きょう、ヤポンスキーが自転車で走ってたよ」などと話してたかもしれないと考えるとなんかほっこりするものがあった。
 
そんなことを考えてる間に、遠くに見えていたスラヴォニツェの町がだんだん近づいてきて
 
スラヴォニツェ到着
 
Hotel Arkada 見ての通りの小さなホテル
 
一人部屋690Kr +朝食80Kr。
お湯がぬるくて勢いも弱かったが、レセプションのおねえちゃんの愛想の良さに免じてよしとする。
 
街歩きはまた明日

しかし次の日は雨なのは知る由もない...
 
 

2005 BD-1で走ったバリ・ロンボク Day2−3

Day2-3  ウブド周辺ポタリング Around Ubud
 
Day2 ウブドまで
 
ジンバランの朝。
バリ初めての朝食、ひとつお手並み拝見と行こうじゃないか。
ビュッフェにはナシゴレンインドネシア風チャーハン)とミーゴレン(同焼きそば)があるのでまずはそっちだ。
… うーむ、タイやベトナムに比べるとどっちも今一つだった。「世界焼きめし選手権」や「国際やきそばグランプリ」があったらアジア地区予選で初戦敗退だ。
 
今日向かうのは内陸の町ウブド
工芸や舞踊といったバリ島の伝統芸術の中心地であり、バリ島に来てヒャッハーしたいパーリーピーポーはビーチリゾート、文化的なものやスピリチュアル系を求める人はウブド、なんならその両方と、目的別に区分けされている感じである。
わたしは自転車で走りに来たのであるから文化やスピリチュアルのあたりは今回そんなに求めていないけれど、内陸部を自転車旅行するとっかかりの町としてウブドを選んだ次第だ。
 
ジンバランのある一帯はバリ島本体から出るう○こもしくは宇宙戦艦ヤマトの第3艦橋のようにぶら下がっている半島である。
ここからウブドに向かうにはデンパサール市街の混みいった部分を抜ける必要があるし、道路も主要国道1本しかない。この区間は自転車で走ってもあまり幸せになれなそうだったので、う○この根元から反対側の海岸サヌールという町までタクシーでワープすることにした。
料金は40000ルピアちょっと。日本の初乗りより安いのだがまだ数字のでかさに慣れないのでドキドキする。
 
タクシーを降りた海岸から、内陸に向かって行く道をゆるゆる登っていく。
寺があって着飾った人たちが集まっている。バリでは毎日どこかでお祭りをやっているというがここもそうなのだろう。
 
ウブドは思っていた以上にツーリスティックな街で、どこもかしこも宿とレストランとカフェと西洋人だらけだ。
 
予約した宿に着く。とりあえず2泊とってある。

goo.gl

昼間ずっと晴れていたが夕方から雨になる。
昼間あれだけツーリストでごった返していた周辺も夜になるとぱったり静かになる。東南アジアの夜というとどこからともなくテレビやカラオケの音が聞こえてくるものだがそれもない。みんな夜は何をして過ごしているんだ。
夜はずいぶん涼しくなる。窓を閉めていてもどこからともなく風が抜けていくのがわかる。たいへん気持ちのいい熱帯の夜だ。ボサノバの名曲「コルコヴァード」の気分だ。ギターがあればいいのになと思った。
 
 
Day3 ウブド周辺

ウブド2日目。今日は一日のんびり過ごしながら近所をポタリングして過ごす。
まずは書店で島の道路地図を買う。
火山島であるバリ島のこの一帯は、火口のある山を中心にして海岸に向かって放射状に道路が伸びているが、東西を貫いて走る道路というのが少ない。すべからく自転車の旅は横線の少ないあみだくじで横方向に進もうとするルートになる。

この国の8月の朝は遅い。6時でもまだ薄暗い。
次第に朝の光が差してくる。青い空とヤシの葉が眩しくなってきた頃、宿のベランダで朝食。ナシゴレン、オムレツ、果物。
 
ウブド周辺はなだらかな斜面になっていて、ツーリストエリアの道をゆるゆる登っていくとほどなく棚田の広がる農村風景となる。ガイドブックには出ていないがその先かなり上がったところまで宿が散在していて、中心部よりその辺りの方が趣があって良さそうだ。棚田も上から見下ろせるだろう。
ウブドの棚田は有名だが、ここだけにある風景ではなくて、この先行く田舎に似たような風景がいくらでも転がっていることをこのあと知ることとなる。
 
東西方向に走ろうとするとしばしば南北に流れる川に行き当たる。ジェットコースターのような下りで流れまで下り、渡った後は漕いで登れないぐらいの激坂で元の標高に戻るのを繰り返す。橋をかけろ、大きな橋を、と悪態をつきたくなる。この登り下りはこのあと毎日繰り返すおなじみパターンとなる。
 
川及び用水路は地元の人の重要なインフラで、洗濯はもちろん水浴び(マンディ)にも使われる。
マンディはバリ人の欠かせない習慣で、老若男女問わず1日に何度も水浴びをして清潔を心がけるという。若い娘がマンディしていたら素敵だなと思いつつ走るがこの旅を通じてわたしが遭遇したのはおばはんばかりだった。時には水路におっさんが放尿していたりするのでトイレの役割もあるのかもしれない。マンディも注意が必要だ。
 
ウブドは棚田で名高いがこんなの島の至る所にある。
 
お寺も至る所に。
 
この町まで登った
 
手近の食堂でひるめしにする。アヤムゴレン(インドネシア風フライドチキン)とあんかけ揚げ麺(名前忘れた)。
 
ひるめし。
食堂シスターズ。
 
宿のこどもたち。
 
2泊目はいい部屋に
 
ロンリープラネットに書いてあるバリ人の精神文化についての記事を読む。
バリ島は他の地域がほとんどムスリムであるインドネシアにあってヒンズー教の地域だ。しかも土着の宗教や仏教のエッセンスも加わった独自の教義であるという。この旅を通じて目にする寺院の独特の建築様式や怪獣っぽい神様はそれに由来する。
また驚いたことにバリはゲイ天国であり、それを目当てに来る西洋人も少なくないという。うっかりウホッいい男とかやらないかとかホモネタを口にすることのないよう旅行中気をつけたい。
一方で男女の交際についても婚前交渉の割合が3%以下と非常に低いと書いてあり興味深い。身持ちの堅い女性が多いのはよい社会である。