2009 KHS F20で走ったチェコ Day14
Day14 ミクロフーブルヂェツラフ Mikulov - Breclav
いよいよ旅も終わり。最終日の走行のあと、輪行でプラハへ戻る。
ミクロフの午前の陽光を味わいながら街歩き。
小さな広場を囲む家並みがラブリーである。
この町にはかつて、若き日のアルフォンス・ムハ(ミュシャ)が2年間住んでいた。
当時、ウィーンの劇場で舞台美術の仕事を得たムハだったが、ほどなく職場が火事で消失し失職してしまい、そのあとなんだかんだでここミクロフに流れつく。肖像画家として不承不承仕事をはじめたムハだったが、そのうち地元の貴族がパトロンに付き、カネとコネを得てやがてパリやミュンヘンで絵の勉強をさせてもらうこととなる。のちの大成への第一歩となるのだった。万事塞翁が馬である。
町を見下ろしてどどんとそびえるお城。
周囲をリヒテンシュタイン領に囲まれた中にあって、この城は16世紀以来、オーストリアの貴族ディートリヒシュタイン家の居城だった。
ボヘミアもモラヴィアも、みんな殿様はシュタインなのだ。知らんけど。
町をあとにお城を振り返りつつ丘を下っていく。さらばミクロフ。
モラヴィア有数のワイン名産地とあって葡萄畑がつづく。
12kmばかり走って着いたヴァルティツェ。この町もお城のある観光スポットだ。
ヴァルティツェ城はかつてモラヴィア全域に領地を持っていたリヒテンシュタイン家の本屋敷であった。
今回は寄らなかったが近くのレドニツェには同家の離宮もあり、こちらと併せてユネスコ世界遺産に指定されている(まあわたしはそういうのわりとどうでもいいんですけど)。
モラヴィアのほかにも各地に領地を有していた大貴族リヒテンシュタイン家であったが、第二次大戦後のドイツ系住民追放と社会主義政権による土地財産接収でその多くを失い、アルプスの麓の小さな領地に引っ込んでしまう。それが現在のリヒテンシュタイン大公国である。
民主化後、共産政権が国有化した土地は元の領主に返されたが、その請求権はチェコ国民に限ったため、リヒテンシュタイン家は対象外とされた。それを不服として国際司法裁判所に提訴したりもしたそうだが、まあ昔から莫大な資産を有する大殿様だから困らないだろう。
寺の裏に回る(尾崎放哉)
あとはブヂェツラフまで10kmちょっと、最短距離の車道をかっ飛ばしてラストスパート。
ザ・社会主義といった感じの造りブヂェツラフの駅に着いた。
ここでついに旅はフィナーレを迎えるのであった。
天気もいいんだから日が暮れるまでもっと走りたい。できれば明日もあさってもこのままずっとチェコを旅して暮らしたい、と思いながらプラットフォームへ。
オーストリア国鉄の機関車がチェコ国鉄の客車を牽くプラハ行き急行に乗る。
プラハ・ホレショヴィツェ駅まで約3時間。
無事ホテルショパンに戻ってきた。
おつかれ相棒。旅の思い出をしみじみかみしめつつ、畳んで分解し輪行ケースに詰める。
旅の終わりにタイヤの空気を抜く瞬間はどこか儀式めいた心持ちになり、いつもじーんとくるものがある。
近所のレストランで最後のチェコごはん。鶏肉のソテー。付け合わせのブランボラークも今日でお別れ。
自転車の旅はこれにておしまい。
最終日はプラハの街歩き。そのあと機内の人となって帰るだけ。
2009 KHS F20で走ったチェコ Day13
Day13 ズノイモーミクロフ Znojmo - Mikulov
今日もオーストリア国境に並行する道を東に向かう。
目指すミクロフは、歴史的にも地理的にもチェコのモラヴィアというよりオーストリアに近い町である。
出発前にズノイモの街を一巡りして写真を撮りあるく。
やけに人出が多い、と思ったら今日は週末だった。街角では結婚式にも出くわしたりして、町もどことなく華やいだ雰囲気、
旧市街の外周を取り巻くのは、近代以降の帝国期につくられた新市街。これまたバロックからユーゲントシュティルの重厚な家並が続く。当時としてはなかなかの都会であったことが偲ばれる。
今日走るルートは、これまでに比べアップダウンや森も少なくなってくる。風景が開けてきた印象だ。
モラヴィア地方、とくに今日走る一帯はワインの名産地として名高い。景色の中にもだんだんぶどう畑が増えてくる。
畑で放し飼いになっていた豚ちゃんたち。黒豚の子どもは子犬みたいで可愛らしい。
畑の中をまっすぐ突っ切る鉄道が東に向かう最短ルートだ、ならばと線路に沿った道を辿ってみる。しかしこれはもっぱら農道でトラクターの轍も深く、生活道路としてはあまり顧みられてないルートのようだった。厳しいダートが続き、やめておけばよかったと後悔しながら進む。
途中の森でひと息ついて木漏れ日ランチ。
見晴らしのいい景色の彼方にミクロフの町が小さく見えてきた。進むにつれて少しずつそれは近づいてくる。
このあたりは国境スレスレでちょっと行くともうオーストリア。上から3番目の看板に「
CZ/A国境 」
着いたミクロフも丘の上の町。城門をくぐると小さな広場と背後にそびえるお城に迎えられる。
とりあえず入ったツーリストオフィスはスタッフがとても親切で手厚い歓迎を受け、なしくずしに宿も予約してもらえた。
泊まったのはHotel Templ。ルネッサンス、アールヌーヴォー様式の2棟の旧家をリノベートした宿。
泊まった部屋はアールヌーヴォー棟。
近所のレストランでばんめし。
いかにも肉って肉だ(五郎風)
部屋でモラヴィアのビールたちと乱取り稽古(スロバキアのも1本混じってる)。
明日は最後の走行日。
2006 KHSF20で走るタイ東北部 Day15 ウドンターニーまで
前の日はこちら
Day15 シーチェンマイからウドンターニーまで Si Chang Mai - Udon Thani
朝出発の準備をしていたら、同宿のドイツ人家族が自転車に荷を積み込んでいるところに会う。彼らもメコン川沿い自転車旅行道中だ。
夫婦と娘3人。小学生の姉妹はそれぞれ自分の自転車を漕ぎ、末っ子はパパの自転車が牽くトレーラーに乗って楽ちんである。それにしてもこんなところまで自転車を持ってきて家族旅行するドイツ人の旅行力には驚くばかりだ。
シーチェンマイは生春巻の皮(ライスペーパー)の名産地として名高い。というのもこの街はベトナム系移民が多く住むからである。
町のそこそこに竹で編んだ網に乗せて干してある春巻の皮を見かける。これが伝統の製法なのだろう。
いよいよこの旅もフィナーレを迎える。
自転車旅最後の日は最寄りの空港のあるウドンターニーまでの走行だ。
略して単にウドンと呼ばれることも多い。春巻の皮の名産地の次はうどんである。うどんは小麦粉だが春巻の皮は米粉だ。どうでもいいが。
ここからウドンまでは、国道を通るのが王道にして正統だが、自転車的には面白くない。そこで番号4ケタの地方道からなる裏ルートをたどって行こうと考えた。
上に挙げたGoogleマップのルートは大まかなもので、正確な道筋は記録が散逸してしまいわからないのだが、さほどアップダウンは多くなかった。
はじめは舗装路…
だんだんローカルな雰囲気…
奥地に進むにつれ次第に道路がしょぼくなり、やがて未舗装のダートになる。
おおついにダート
ダートと言ってもきめの細かい土が固まった路面で走りやすい。サス無しのKHSでもラクに走ることができ、この日の平均時速は驚いたことにこれまでの舗装道を走った日と変わりなかった。
農場や森、小さな村を縫って田舎道を走って辺境気分が味わえたのはよかった。旅の最後にワイルドな道中をちょっと楽しめてちょっとしたボーナスステージであった。
鄙びた農村の風景は次第に郊外のそれに変わり、やがて建物は高くなりクルマも多くなる。街が近い。
ウドンターニーに着いた。
ああ旅が終わったんだなという充実感と一抹の寂しさが交錯する。
旅の最初に降り立ったコーンケーンはウドンの200km弱南だ。あと2、3日あればコーンケーンまで自走して旅の環を閉じることができたのに、とか考えるがまあそういうのはあまり意味がない。
夜の便でバンコクに発つ。それまで市場を冷やかしたり、メシを食ったりして街をぶらつく。市場はどこもやはり楽しい。
豚の頭専門屋台。どうやって食うんだろう…
王道のガパオで旅程を締めくくろう
あやしいシェフ。目つきもヤバい。だいたいそのヒゲは何だ。
「トマト&パパイヤソース」とあるが唐辛子の絵もあって謎味
夜の飛行機でバンコクに飛び(所要1時間)、
着いた時に泊まったホテルに再び投宿。一泊して次の日に荷造りし、帰国の途に就く。
毎回利用しているアシアナ航空の日本便はドンムアンを夜更けに出発する。そのためさらにもう一泊分部屋を取っておいて夕方まで滞在し、それから空港のラウンジでばんめしがてら出発まで飲んだくれる、というパターンを今回も踏襲した。
4度目のタイ、これまで訪れた地方に比べるとイサーンはさほど良いものではなかったが、後半のメコン川沿いの旅で大いに旅情を満喫して挽回できたのはめでたいことであった。
これで中部、南部、東北部とタイ各地に足(タイヤ)跡を残した。あとは中部と南部の間をつなげている海岸地帯が未踏の道として残されている。
次の年はそのルートを走ることとなるのだった。
またしてもいい旅だった。
やはりタイは、衆生が自転車で走って愉しみ解脱するためにブッダが造りたもうた楽園であった。
いやー自転車旅って、ほんとにいいもんですねえ(故水野晴郎風)
2006 BD-1で走るタイ東北部 完
2006 KHSF20で走るタイ東北部 Day14 シーチェンマイまで
前の日はこちら
Day14 サンコム - シーチェンマイ Sangkom - Si Chaingmai
2回目のメコン川沿いルート、前回の旅では通過して泊まらなかった町に今回滞在しようという方針だ。
であるので今日の行き先は、前回は素通りしたシーチェンマイ。
シーチェンマイまでは、川沿いの道を普通に走れば40kmちょっとで着いてしまう。
しかし旅も終わりになると少しでも長く走りたいという気になるのに加え、前回と同じ道を走るのは潔しとせずという思いもある。またチャンカーン以来ずっと目に入るものといえばメコン川ばかりだったので、もうメコン川はいいからなんか他のものを出してみろ!という気持ちもあった。
よって今日は地図に示す如く、わざわざ山の中を遠回りして未知の道をいくルートを取ることにする。
目覚めると今日も窓の外はメコン川のパノラマ。
晴れてはいるが今朝も随分涼しい。テラスで朝ごはんを食べたが肌寒いぐらいだった。
それでは今日も出発。
メコンの川筋から外れて内陸に入ってゆく2376号線を辿る。斜面をなだらかに登っていくと丘やがての稜線をたどる道となる。
左手に山、右手に河岸段丘が広がる気持ちのいい景色の中をゆく。バーンナムという町まではそんな感じ(こんな小さな町にも宿がある@2023年)。
牛との出会い
首がかゆいので掻きに来たらしかった
その先はさらに上り坂となりちょっとしたヒルクライム気分だ。ほどなく峠っぽいところに達し、その先、目指すシーチェンマイまで30kmあまりの下りが続く。
途中でゾウ一家の水浴びを見る。パパ象の背中に象使いが乗っており、ママ象とちび象がおとなしくついていく。
一通り水浴びが済むとおとなしくトラックの荷台に乗り込んで帰っていく様子がラブリーであった。
シーチェンマイに着いた。
川沿いの宮殿風ホテルに投宿。
メコン川の対岸はラオスの首都たるヴィエンチャンである。前回は向こう側からこっちを眺めたのだった。
こちら側は牛がのんびりと草を食む田舎町だ。
ビエンチャンの夜景を眺めながらばんめし。
対岸の明かりは意外に近くに見える。前回ビエンチャンの河原で川に向かっておしっこなどしたがタイ側から見えてたかもしれないと思うと忸怩たるものがある。
明日はサイクリング最後の日だ。
最寄りの空港のあるまで走ってから飛行機でバンコクに飛び、帰国の途につく。
2006 KHSF20で走るタイ東北部 Day11
Day11 コーンケーンからバスでルーイへ
今日はさらに北に向かうバスで輪行し、メコン川沿いの旅の起点とするルーイまで行く。
ルーイは前の年にメコン川沿いからラオスに旅した時にも来て泊まった町だ。
昼過ぎのバスに乗り込む。ルーイまで4時間の旅。
車内はほぼ満席で隣は若い女の子だ。話をしてみると完璧なアメリカ英語を話すので驚いた。
彼女はバンコクのインターナショナルスクールに通う女子高生で、飛行機でコーンケーンに着いて、これから両親が住むルーイに帰省するところだという。とにかく英語が流暢で、わたしも英語はまあ話せる方だと自負しているが、彼女のペースに合わせていると脳が口に追いつかず滑舌がおかしくなってしまうぐらいの流暢さだ。女子高生に笑われるとはおじさん情けない。
バンコクの女子高生ライフや日本の話でいろいろ楽しく話す。高校を卒業したらバンコクでなくアメリカの大学に行きたいと言っていた。首都のインターナショナルスクールに出すぐらいだからおうちもお金持ちなのだろう。
車窓から見える風景は山や林が多く緑の潤いに溢れている。イサーンの白茶けた景色とは対照的だ。やはりこの地方に来てよかった。
女子高生との無料トークタイムも終わりルーイに着く。
ツーショット記念写真を撮ったらめちゃめちゃあやしい感じになってよかった
乗ってきたバス
街も緑が多く、これまで滞在していた町の埃っぽくて雑然とした感じがない。全てが小綺麗で落ち着いている。やはりこれがわたしの好きなタイの地方都市の姿だ。
去年来た時と同じホテルに投宿する。
前回はちょうど王女様が泊まりに来る日で、従業員総出で入り口で整列してお出迎えしているところに自転車で突入するという珍しくもこっ恥ずかしい体験をした。
今回は粗相の無いように心してレセプションに臨んだが、自転車持ち込むなら1階がいいでしょうと言われ、空いているからどうぞとジュニアスイートの部屋を通常料金でサービスされた。やはりいいホテルだ。
次の日はこちら