チェスキークルムロフČeský Krumlov (rest day)
今日はC.クルムロフで過ごす。
ユネスコ世界遺産として人気のこの街、ずっと昔からこのままのような顔をしているが、ドイツ併合~共産主義時代には衰退荒廃し、中心部などロマの棲み処と化していたのを、民主化以降修復整備して現在の観光地の顔を造り上げたものなのでである。
大戦前にはドイツ系住民が約8割を占めていたが(ドイツ語名クルマウ)、ドイツ敗戦後ドイツ系住民の強制追放が行われたので、大半の住民は戦後移住してきた世代ということになる。
『チェスキー・クルムロフの歴史が紹介される際には、現在、この町が属するチェコ共和国の立場が反映されるのが通常である。そのため、この町の歴史的景観が形成されたほとんどの期間において、町が「クルマウ」と呼ばれていたことや、当時の多数派であったドイツ系住民が一斉に故郷を追われたため、町の人口構成が相当変化していることについては、言及しないことが通常となっている。
また、この町が1945年以降「荒廃の危機」に直面したことについても、もっぱらナチス・ドイツや共産主義が責任を負うべきこととされ、ドイツ系住民の追放が影響が語られることはまずない(たとえば、NHKの世界遺産関連の番組のサイトは、クルムロフ城が荒廃した原因として「ナチスによる町の占領」と「共産党支配のもとでの伝統文化の否定」を挙げ、ドイツ系住民の存在と追放については特に指摘することなく「ドイツの占領と第二次世界大戦の終結を経て、一時期無人となった」と解説している。
現実には、ドイツ系住民を追放し、旧来のコミュニティーの大半を失ったことは、町の荒廃に決定的な影響を及ぼした。さらに、オーストリアの画家エゴン・シーレが、すでに20世紀初頭の段階において、この町を「死の街」と形容していたことも無視できない。
すなわち、産業革命の波に取り残され、城主からも見放されていたこの町は、民族主義、ナチズム、共産主義の到来のはるか以前から、打ち捨てられる運命にあったのである(それゆえ歴史的景観がそのまま残るのであるが)。
いずれにせよ、町の歴史におけるドイツ的要素に言及せず、受難の歴史をナチズムと共産主義に帰責する説明は、史実のすべてを語っていない点で正確でない。』(Wikipedia)
広場は何やらイベントで賑わう
丘に登ってお城を遠望。教会は結婚式でにぎわっていた。
お城を観光
管理人のおじさん(右下の人)がすでに帰るところだったので塔には登れず
裏町をそぞろ歩く
謎のオブジェのある工房(営業車はトラバント)
夜もそぞろ歩く
C. クルムロフの地ビール Eggenbergでプハー