裏庭に面した窓は緑の木立を臨み、小鳥が鳴く声が絶え間なく聞こえる。ここでもう一泊して休養日としよう。
フレンドリーな学者風のオーナーは退官したもと考古学教授。若い頃はさぞ美人だったと思しき奥さんは同じ大学で数学を教えていた由。
朝ごはんの陣容はチェコと同じだが、自家製含むチーズ各種やハムがチェコよりうまい気がする。
奥さんは話し好きでこちらがドイツ語を少しばかり解すると知ると食事中もよく話しかけてくる。(英語は片言)。お国の地震は大変だったわねえ、おうちは大丈夫だったの、日本じゃ朝ごはんは何食べてるの、あらそう奥さんとプラハで落ち合うの、一緒に自転車で、まあステキ。こちらも錆び付いたドイツ語で脳の奥に埋まった単語をほじくり出しながらうんうん唸りつつ会話する。思わぬところでいい独会話レッスンである。
朝ごはんの陣容はチェコと同じだが、自家製含むチーズ各種やハムがチェコよりうまい気がする。
奥さんは話し好きでこちらがドイツ語を少しばかり解すると知ると食事中もよく話しかけてくる。(英語は片言)。お国の地震は大変だったわねえ、おうちは大丈夫だったの、日本じゃ朝ごはんは何食べてるの、あらそう奥さんとプラハで落ち合うの、一緒に自転車で、まあステキ。こちらも錆び付いたドイツ語で脳の奥に埋まった単語をほじくり出しながらうんうん唸りつつ会話する。思わぬところでいい独会話レッスンである。
以前どこかで「社会主義時代の東欧は高校でロシア語とドイツ語が必修だった」とどこかで書いたがこれは間違いで、奥さんによれば確かに露語は必須だったが第2外国語は独英仏から選択できたそうな(でもほとんどの生徒はドイツ語をとったそうな。何といっても東独は東側の先進国だったから。
ドイツ語はすごい。
昔ずいぶんやったフランス語なんて旅で役立つのはフランスとベルギーぐらいだったが(ベトナム行ったときちょっとは役に立つかなと思ったがぜーんぜん)、ドイツ語がわかるとフランス国境から東側全部、おそらくはロシアでも話が通じる人がいる。今日は大きい部屋(写真下)が空いたので150zlでいいですよという。
確かに何やら貴族のお館風でゴージャスこの上ないのだが、道路に面していて外を通るクルマの音が気になるのと、なにより絶えず小鳥の声が聞こえる小さい部屋の居心地がよすぎて移る気にならない。写真だけ撮らせてもらい、自分の部屋に戻って朝寝としゃれこむ。 窓を開けて午前の陽光を浴びつつうとうととまどろむ至福のひととき.。
街歩きに出かける。
ツーリストオフィス(18世紀建造の要塞(写真)の中に作られている)に行ってパソコンで情報収集。しかしこれがほどなく不調となり、スタッフの女の子に言ったら自分が仕事で使っていたPCを使わせてくれた上にお茶まで出してくれた。ポーランド人親切説がわたしの中で確固たるものになってきた。
さあ観光だ。まずは街のシンボルの聖ヤコブ及びアグネス教会( 1430建造. 右が母屋で左は付属の鐘楼)。
MDXIIIとは1513年である
大戦末期の1945年、二サは独ソの激戦地となり、旧市街の八割が廃墟と化した。この一角は戦火を逃れて残ったわずかな一部。
旧市街の外側は広大な森林公園。鬱蒼とした森の中のトレイルをしばしそぞろ歩く。
ソテーの上にたっぷりチーズとパプリカ他の味付けが乗っていてこれはうまかった。このホテルは宿としてはロケーションは今ひとつだが、レストランはすばらしい。